【DEE】

ベースギターを弾こうと思っていた。
安くてカッコいいベースを探して、楽器店巡りを繰り返した。
しかし、琴線に触れる一品は、なかなか見つからないものだ。
いたずらに時は過ぎて行った。ついには御茶ノ水まで足を伸ばした。
それでも見つからない。「これはっ!」と思うものは、有名ブランド物で、価格も数十万規模だ。

私は「楽器とは出会うもの」と思っている。
そして、それは、いつも突然に訪れる。
今の相棒であるギターとの出会いもそうであった。
十数年前の事である。当時の私は仕事に忙殺され、また莫大な住宅ローンを組みマンションを購入したばかりだった。
現実に翻弄され、学生の頃に抱いていた淡い夢や情熱さえも忘れかけていた。
しかし、ロックに対する想いまでもが消えたわけではなかった。

 

その日、私は久しぶりの休日をのんびり過ごそうと考えていた。
「今日は目玉が腐るまで寝てやろう」
しかし、9時ごろに女房に叩き起こされた。買い物に付き合えと言うのだ。
なんたる暴挙!しかし・・・
「女の買い物には付き合わない」などと、守れるはずも無いポリシーを持っていた私だったが、すぐに考えを改めた。
「貴重な休日を自分の為だけに消化するのも、いかがなものか?」
結局、私は女房の「お供」で横浜に出かける事となった。

悪い予感がした。

 

 

予感は的中した。
自動販売機で飲み物を買うのに5分も迷う奴の買い物に、付き合いきれるはずが無い!
私はウンザリしていた。
さらに、スマホの機種変更をする為に、私達はAUショップへ向かった。
カウンターで整理券を取り、待ち人数の多さを見た時、ついに私は眩暈におそわれ、何かが弾けた。
スマホの機種変更ぐらい、俺の意見が無くても出来るだろう」
この商業ビルの上階に、確か楽器店があったはずだ。
「楽器屋に居るから」と言い残し、私は一人でAUショップを後にした。

 

「やはり、今日は目玉が腐るまで寝ているべきだった」
わたしはイラついていた。
土踏まずが痛いし、脚は棒のようだし、肩も凝ったし、人ごみで二酸化炭素に酔ったし、
「どうしよう~・・・じゃねえよ、ちゃっちゃと決めろ!」
優柔不断な女房を、心の中で罵倒しながら、私は楽器店に入った。

 

楽器店は私にとって夢のワンダーランドである。
憧れのGIBSONレスポール、ギターのキャデラックGretsch、美しすぎるPRSなど。
どれもが高嶺の花である。私の心が「苛立ち」から「抑揚」に変化するのに時間はかからなかった。
店内を見回るうちに、ふと壁に吊るされた1本のギターに、私の目が留まった。
それは虎木目のレスポールモデルだった。

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良く見ると指板に白蝶貝が、縁取りにメキシコアワビの螺鈿細工(インレイ)が施されていた。

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「うわっ!君はすごく綺麗だね!」
きっと有名なギターに違いない。私は名前を聞いた。
シェクター」とギターは言った。
聞いた事のない名前だった。しかし、私はこのギターにすっかり心を奪われていた。
長い時間、私はこのギターに見入っていたのだろう。
「弾いてみませんか?」の声に、私ははっと我に帰った。振り返ると長髪をちょんまげにした店員が微笑んでいた。
弾いて「みますか?」ではなく「みませんか?」の言い回しが妙に気に入った。
「気に入ったならば弾いてあげてよ」と言われた気がしたからだ。
長髪の店員は私を丸椅子座らせ、アンプを用意した。オーバードライヴはアンプに内蔵されていたが、私はコーラスをかけたいと所望した。
私はおもむろにギターを爪弾いた。暫くぶりの演奏だった。
かつて弾けたほとんどの曲は忘れていた。何度も弾いて指が覚えている自信があったのは、この曲だけだった。ランディー・ローズの「DEE」だけだった。

 

「買ってあげようか?」
気が付くと、機種変更を終えたであろう女房が目の前に立っていた。
私は急に現実に引き戻された。慌ててギターをスタンドに置いた。
当時の私に新品のギターなど必要なかった。古いギターなら持っているし、演奏技術も鈍っている、趣味でいじくるだけならば、このギターは眩しすぎた。
「いや、その、店員さんに薦められて、つい・・・」
「店の入り口で、この曲が聞こえたから、あんただと思ったよ。アパート暮らしの時に、良く弾いてたね。その曲」
「そうだっけ?」と、とぼけた。
「夜中に帰ってきて、弾きだすから、寝付けなくて困ったよ」
「そりゃあ悪かったね」
「また弾いたら良いじゃない」
「寝れなくて、怒るだろう」
「寝れないから怒ってたんじゃないんだよ!要らないの?そのギター?」
私は左手の指先を見つめた。嘗てあったギターダコはすっかり無くなっており、僅かな演奏でも指先がちりちりと痛んでいた。懐かしい痛みだった。
「正直、気に入った・・・」
「じゃあ、決まりね。あたしの気が変わらないうちに、さっさと店員を呼びなさいっ!」

 

うちの女房は自動販売機の前で5分も迷う超優柔不断だ。本当だ。
コンビニに入れば、15分以内に退店した記憶がない。
しかし、このギターを買う決断をした早さには舌を巻いた。
かくして、私はこのギターと出会い、恋をし、手に入れたわけだ。
後で知った事だが、女房は結局、機種変更を見送った。

なるほど、案外早く楽器店で合流したのも合点がいく。
男は何時も、後になってから気が付く、鈍感な生き物だ。

 

あちこちの楽器店を巡っても、琴線に触れるベースに巡り合わない。
私は視野を広げてウェブでベースギターを探した。
「安くて、黒系の、美しい」ベースギターを探していた。
日本中の楽器店の在庫を、自宅のソファで検索できるのだ。世の中、便利になったものだ。
昨日、一本のベースギターに目を奪われた。
キルト・メイプル・トップの美しい木目、黒系、定価で10万そこそこの品、だがワケアリでアウトレット価格で30%オフ。
「おおっ!良いじゃないか!」一目惚れした。
私はついに名古屋の楽器店でそれを見つけた。
新しい形での出会いに戸惑いながらも、購入を決意した。
その名前は「Schecter AD-DM-EL-4 STBK」という。
到着を楽しみにしている。